つれづれる。

まとまんない思考を書き散らします。それで良い。かも。

冗談

99人が笑って冗談で済ませて

1人だけが苦しみ続ける世の中よりも

 

100人が真剣に悩んで話せる世の中のほうが私は好きで

 

だから私は、なんでも冗談で済ませてしまう元カノよりも、

常にマジレスのあの人と一緒にいたいのだと思う。

 

元カノの軽さに気が楽になることも救われることもあった。

けどそれは結局一時的なもので、

私のなかでモヤモヤはくすぶり続ける。

 

今一緒にいたいあの人は対話が好きで、

私が言葉に詰まっても、

傷つけてしまうようなことを言ってしまった時も、

私と言う存在を諦めずに対話に付き合ってくれる。

 

 

この関係は、私にとってはとても尊いし得難い。

 

【作品7】身体の幾重

「理想の身体の形」について考えている。

一つには、私が「健常身体」というか、少なくとも、五体満足であることに対しての「罪悪感」を抱いているからである。

私の身体はおおむねとてもflexibleで(それは、物理的な意味でもそうだし、社会的な意味でもそうだ)、それは様々な場所に抵抗なく存在できてしまうということを意味する。

その抵抗のなさによって、私が見過ごしているものがきっとたくさんあるはずである。

私が生きているこの身体も、

そうであれと

【作品6】架橋(完パスする彼女との生理についての対話)

私には彼女がいて、彼女には生理がない。

「いっそ」を制作した後、私はしばらく彼女にそれを見せることができなかった。

 

怖かったのだ。

この現象が、彼女との間に、圧倒的な差異として立ち現れてしまうのではないか、ということが。

 

むろん、別個の生き物である私たちが、全く異なる経験を持っているのは当たり前である。根本的に、他者という存在には理解不可能性がつきまとう。

 

一方で、この「生理」という現象は、圧倒的に「女性の」現象として語られることが多い。女性であれば、生理があることが当たり前だとされてしまう。

 

私は、この現象が「性別変更の限界」として立ち現れることが怖かった。「シス女性と同様の機能」を持った身体にはならない、ゆえに「本物の女」にはなれない、というレトリック、そこにおける象徴的な現象として立ち現れてしまうのではないかということを恐怖していた。

 

同時に、その恐怖が、私と彼女の間の隙間をどんどん押し広げていってしまうであろうことも感じていた。そうして「語れない」ことが増えれば増えるほど、私たちの関係はぎこちないものになっていくだろうと思った。

ちゃんと架橋したかった。そのために、彼女と対話をしたいと感じた。

 

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「生理について対話しながら、一緒に作品を作らないか」と相談した時、彼女はそれを嬉しく思ったと、そう伝えてくれた。

 

紙に向かい合い、ポツリポツリと自らの経験を語り、描き、書き、そこからまた会話が生じた。

滅多に病気もせず、生理もない、ホルモンへの副作用もほとんどない健常身体であることへの罪悪感、

生理が軽い人、ほとんどない人の体験を聞いた時にとても安心したこと、

子供を産みたいという気持ちもないし、現象としての生理は別に欲しいとは思わないこと、

生理について話す場で完全に聞き役にまわったこと、

 

カミングアウトしていない友達に「ナプキン持ってない?」と聞かれて動揺したこと…

 

私も、「いっそ」の説明に書いたようなことなどを話した。

 

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対話を通じて、私と彼女の間の経験的な差異を沢山発見した。

それは、無理やり「シス女性」と「トランス女性」の差異に還元することができないような性質のものだ。

そしてまた、その差異は即ち断絶であるということを意味しない。

他者の経験を他者の経験として捉えること、それそのものとして尊重すること、その試みを私は「架橋」と呼びたい。

【作品5】ぐにゃぐにゃ、ぐちゃぐちゃ

私自分が「こうありたい」と欲望する姿と、現前の身体には、何かしらのギャップがある。もう手に入れたものに対して「欲しい」と思う必要はない。

言い換えれば、理想の身体を求めるプロセスは、常に失敗し続けるもの、そのギャップを確認しつづける作業なのである。

 

みんな、その失敗とどう折り合いをつけているのか?

他の人の交渉の仕方を学びたいと思った。

 

7名の人にそれぞれ1〜2時間のインタビューをさせてもらった。

 

普通のメンタリティが欲しいと語ったMさん。

海の生き物になりたいと語ったRさん。

効率的な身体が欲しいと語ったTさん。

よく分からないと語ったYさん。

こびない感じでいたいと語ったSさん。

野生の生き物のように強く美しくかっこよくありたいと語ったKさん。

「かわいい」の集合体になりたいと語ったAさん。

 

インタビューを受けてもらった人のうち、5名で粘土でワークショップを行った。

 

出来上がったものは、それぞれ、言葉で語られたものとは全く別の物のように思えた。

探りかたも人それぞれ。頭を打ち付けて粘土をこねる人もいた。

 

結局、何が理解できたかと言えば、何も理解できなかった。

ただ、「語れなさ」だけが実感として残った。

それは、自身の身体についてもそうだ。

インタビューをして、粘土で形にして、それでも言葉にできなかったもの、形になりきれなかったもの、意味の残渣がそこには浮遊していたと思う。

 

「私はこうなりたい」と言葉におこすことは、自分の欲望をキレイに掘り上げて成形する行為だ。もちろん視認性はかなり上がるのだが、掘り上げた際の削りかすは、しばしば廃棄されてしまう。

そうしてキレイに提示されたそれは、しばしば、キレイに見えすぎるが故に、呪いのように自分自身に暗示をかけることもあるのではないかと感じる。

 

ぐちゃぐちゃのままでいいんじゃない、と、この作品制作を通じて思った。

昔決めた一つのゴールに向かって進まなくてもいいし、ゴールが見えなくなってもいいし、忘れてもいいし、ゴールを爆破してもいい。そもそも存在していなくていい。

粘土の中で心地よさを探るように、自身と、自身の身体と、交渉を重ねながら、まどろむように、生きていけたら。

【作品4】木を公然わいせつ罪から守ってみた

この街を全裸で歩いたら、まず通報される。

それから警察がきて、しょっぴかれて、私は犯罪者になるんだろう。

 

【公然わいせつ罪は、人前で全裸になった、陰部を露出したなどというように、「公然と」「わいせつな行為」を行った場合に成立し得る犯罪です。 刑法174条に規定され、罰則は「6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料」とされています。】

 

とかくこの世では何かしら布を身にまとって生活しなくちゃいけない。

それだけで面倒くさいのに、その上その布の形や色も、その人の属性やTPOとやらに応じて細かく「社会的な服装」というものが暗黙のうちに定められているようである。

 

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それなのに、ある日、公園を歩いていたら、全裸を見てしまった。

全裸のメタセコイヤの木。

あら大変、この社会では完全アウト。

 

この世の中では女の子なら女の子の服を、男の子なら男の子の服を着せなきゃいけないと言われているので、(google先生に)性別を聞いてみた。

 

「あなた、男の子?女の子?」

 

すると、雌雄同株だという。要は、一本の木に、雄の花も雌の花も咲くのである。

これは面倒臭い。なぜなら、この社会の戸籍には男/女という記載しかできないのだ。

となると、どちらかに決めなきゃいけない。

 

「どっちがいい?」

 

「何が違うの?」

 

「男なら男子トイレと男湯に入れる。女なら女子トイレと女湯に入れるよ。

間違えたら捕まるから気をつけてね。

あ、女だったら、少し無駄な枝が多いみたいだから手入れした方がいいかも…」

 

「トイレ使わないし、温泉にも入らないよ。放っといてよ」

 

「けど、この社会には、やっぱTPOってものがあるから。ここは公共の場なんだから、そんなんじゃダメだよ。」

 

サイコロを振ると「女」と出たので、私は、メタセコイヤを前科から守ろうという善意でレディースの古着をかき集め、「彼女」に着せてあげることにした。

 

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服を着せている最中、メタセコイヤは始終迷惑そうに枝を揺らしていたが、やがてとうとう諦めて押し黙った。

 

レディース服に身を包んだメタセコイヤは、着る前よりもずいぶんと可愛く女の子らしくなり、私は満足げに微笑んだのだった。