【作品6】架橋(完パスする彼女との生理についての対話)
私には彼女がいて、彼女には生理がない。
「いっそ」を制作した後、私はしばらく彼女にそれを見せることができなかった。
怖かったのだ。
この現象が、彼女との間に、圧倒的な差異として立ち現れてしまうのではないか、ということが。
むろん、別個の生き物である私たちが、全く異なる経験を持っているのは当たり前である。根本的に、他者という存在には理解不可能性がつきまとう。
一方で、この「生理」という現象は、圧倒的に「女性の」現象として語られることが多い。女性であれば、生理があることが当たり前だとされてしまう。
私は、この現象が「性別変更の限界」として立ち現れることが怖かった。「シス女性と同様の機能」を持った身体にはならない、ゆえに「本物の女」にはなれない、というレトリック、そこにおける象徴的な現象として立ち現れてしまうのではないかということを恐怖していた。
同時に、その恐怖が、私と彼女の間の隙間をどんどん押し広げていってしまうであろうことも感じていた。そうして「語れない」ことが増えれば増えるほど、私たちの関係はぎこちないものになっていくだろうと思った。
ちゃんと架橋したかった。そのために、彼女と対話をしたいと感じた。
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「生理について対話しながら、一緒に作品を作らないか」と相談した時、彼女はそれを嬉しく思ったと、そう伝えてくれた。
紙に向かい合い、ポツリポツリと自らの経験を語り、描き、書き、そこからまた会話が生じた。
滅多に病気もせず、生理もない、ホルモンへの副作用もほとんどない健常身体であることへの罪悪感、
生理が軽い人、ほとんどない人の体験を聞いた時にとても安心したこと、
子供を産みたいという気持ちもないし、現象としての生理は別に欲しいとは思わないこと、
生理について話す場で完全に聞き役にまわったこと、
カミングアウトしていない友達に「ナプキン持ってない?」と聞かれて動揺したこと…
私も、「いっそ」の説明に書いたようなことなどを話した。
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対話を通じて、私と彼女の間の経験的な差異を沢山発見した。
それは、無理やり「シス女性」と「トランス女性」の差異に還元することができないような性質のものだ。
そしてまた、その差異は即ち断絶であるということを意味しない。
他者の経験を他者の経験として捉えること、それそのものとして尊重すること、その試みを私は「架橋」と呼びたい。