【作品5】ぐにゃぐにゃ、ぐちゃぐちゃ
私自分が「こうありたい」と欲望する姿と、現前の身体には、何かしらのギャップがある。もう手に入れたものに対して「欲しい」と思う必要はない。
言い換えれば、理想の身体を求めるプロセスは、常に失敗し続けるもの、そのギャップを確認しつづける作業なのである。
みんな、その失敗とどう折り合いをつけているのか?
他の人の交渉の仕方を学びたいと思った。
7名の人にそれぞれ1〜2時間のインタビューをさせてもらった。
普通のメンタリティが欲しいと語ったMさん。
海の生き物になりたいと語ったRさん。
効率的な身体が欲しいと語ったTさん。
よく分からないと語ったYさん。
こびない感じでいたいと語ったSさん。
野生の生き物のように強く美しくかっこよくありたいと語ったKさん。
「かわいい」の集合体になりたいと語ったAさん。
インタビューを受けてもらった人のうち、5名で粘土でワークショップを行った。
出来上がったものは、それぞれ、言葉で語られたものとは全く別の物のように思えた。
探りかたも人それぞれ。頭を打ち付けて粘土をこねる人もいた。
結局、何が理解できたかと言えば、何も理解できなかった。
ただ、「語れなさ」だけが実感として残った。
それは、自身の身体についてもそうだ。
インタビューをして、粘土で形にして、それでも言葉にできなかったもの、形になりきれなかったもの、意味の残渣がそこには浮遊していたと思う。
「私はこうなりたい」と言葉におこすことは、自分の欲望をキレイに掘り上げて成形する行為だ。もちろん視認性はかなり上がるのだが、掘り上げた際の削りかすは、しばしば廃棄されてしまう。
そうしてキレイに提示されたそれは、しばしば、キレイに見えすぎるが故に、呪いのように自分自身に暗示をかけることもあるのではないかと感じる。
ぐちゃぐちゃのままでいいんじゃない、と、この作品制作を通じて思った。
昔決めた一つのゴールに向かって進まなくてもいいし、ゴールが見えなくなってもいいし、忘れてもいいし、ゴールを爆破してもいい。そもそも存在していなくていい。
粘土の中で心地よさを探るように、自身と、自身の身体と、交渉を重ねながら、まどろむように、生きていけたら。