つれづれる。

まとまんない思考を書き散らします。それで良い。かも。

【作品3】追い出されタイヤ

**市・**町を訪れた。

正確には、訪れようとした。

以前行ったことがあったため同じバス停で降りれば大丈夫と踏んで、結局記憶力がスカスカな私は、全く違うバス停で降りた。

 

仕方ない、歩いていくかと考え、道端の地図で方角を確認し、歩いた。

途中、分かれ道で遠くに工業地帯の煙が見え、それに誘われるようにして私は進路を変えた。

そうしてたどり着いたのが、**市・**通りである。

 

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入った瞬間に、ワクワクした気持ちを覚えた。

 

一言で言うと、道端の生命力が強い。

街路樹の周りを囲むように雑多に置かれた大量の植木鉢。

イチョウの木のてっぺんまで所狭しと絡みつく緑のツタ。

そして、数歩歩けば雨ざらしにされた沢山のもの達にあたる。

椅子、布団、トランクケース、自転車、自転車のタイヤ…

それらは「ゴミ」と呼ばれるものだろうが、不思議と活力を伴って見えた。

 

こんな場所を私は見たことがなかった。

 

これらの「ゴミ」は、人間に回収されて再利用されるでも、燃やされて灰になるわけでもなく、ただ、この場所で雑多に生える植物と不思議に調和したまま、ゆっくりと分解されて土に還っていくのだろうか。

 

他の場所に移動させたら、これらの「ゴミ」はどう変化していくのだろう。

この活力を保てるのだろうか。

好奇心に駆られ、私は、近くのスーパーで丈夫なゴミ袋を買い、いくつかの「ゴミ」を持ち去った。(下校途中の小学生に奇異の目で見られながら)

 

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私の家の近所には、**川が流れる。

**川のほとりに、拾ったものを持って行き、組み立ててみた。

ほとりには、ツタが沢山育っている。虫も沢山いる。毎朝釣り人が通る。休日には家族が遊びにくる。

私の組み立てたものは、この場所でどのように周囲と関わっていくだろうか。

半ば、実験のような気持ちで、一ヶ月間様子を見ることにした。

以下はその変遷である。

 

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初めにツタが絡みつき、クモがタイヤに巣を張った。沢山のアリがのぼっていた。

 

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しばらく経ったある日、見にいくと、組み立てたものが崩壊していた。

崩れたものはバラバラになり、道に落ちていた頃を思い起こさせた。

組み立て直すか否か、とても迷ったが、ひとまず置いておいて様子を見ることにした。

 

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保育園の子供達が列をなしてやってきた。

「あ、壊れちゃってる!!」「危ないから近づいたらダメだよ」

子供達と保育士の会話が聞こえる。

この「もの」の変遷を、ここに生きる人たちも一緒に追ってくれているのだ、と感じた。

 

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別の日、様子を見にいくと、バラバラになったものたちはひとところにまとめられ、黄色い張り紙が貼られていた。

「この投棄物がこの場所に放置されていることにより、河川管理上及び河川環境上支障があるので所有者は速やかに撤去するよう警告します」

国土交通省からの警告だった。

 

どうやら、この「もの」がここに存在することは許されないようである。

では、何なら許されるのだろうか。その疑問に黄色い紙は応えてくれない。

 

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投棄物、を辞書で引く。

【投棄:投げ捨てること。】

ならば、投げ捨てていないとわかるものならば、この警告には当たらないのだろうか。

今度は形を少し変えて組み立てることにした。

 

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少しして、見にいくと、また「もの」は崩壊していた。

雨風の仕業か、人が触れたのか、はたまた鳥がつついたのかは分からない。

そうして次の日見にいくと、タイヤが草むらに投げられていた。

どうしても河川敷に置かれていてはダメらしい。

では、今ここに立っている私は?私とタイヤは何が異なるのだろうか?

【作品2】「いっそ」

ある生理についての作品を見て、ああ、血の力って強いなって思った。

私も生理についての作品を作りたいと思った。

「女性固有の」現象について扱うことで、フェミニズム的な文脈の中に位置付けられるのではないかと思った。

 

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最初に構想したのは、新聞紙を敷き詰め、その上に生理の血を垂らしながら生活するというものだった。

漢字を切り抜いて、その漢字の上に血を垂らすことを考えた。

私が生活し、血の面積が増えるにつれて、だんだんと文字が読めなくなっていく。

私の生活の経験が、生産的な「理性」を覆ってゆくのである。

元来男性のものとされた漢字を使うことで、ファロゴセントリズム(ジャック・デリダの造語で、ファルス(男根)+ロゴセントリズム(理性中心主義):言語の意味体型が男性中心的に構築されていることを指摘する用語)批判的な側面が明確になると思った。

しかし…

なぜ、「私が」、「今」、その作品を作る必要があるのか?

そう自分自身に問いを投げかけた時、答えに窮することに気づいた。

もちろん、言おうと思えばいくらでもそれらしいことを説明できるとは思うのだが、自分自身に対して納得感をもてなかったのだ。

 

この構想は、私個人が心からファロゴセントリズムを問題視したがために生まれたわけではなく、ある意味「理性的に」考えて生まれたものだった。

机上の空論であり、私自身の生活の実感が伴っていなかった、命が入っていなかったのである。

(一応補足すると、全ての作家においてこれがいけないと言うつもりはなく、私個人として、私自身の経験に紐づいた実感をもって作品を制作したいと感じたにすぎない)

 

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また、もう一つ、大きな問題にも気づいた。

「生理」を「女性性」に結び付けて語ってしまうことの危険性である。

 

ちょうどその頃、J.K.ローリングがTwitterで炎上していた。

 

【‘People who menstruate.’ I’m sure there used to be a word for those people. Someone help me out. Wumben? Wimpund? Woomud?】

ーJ.K.ローリングのTwitterより引用

 

この発言は、様々なジェンダーを考慮して「生理のある人」という書き方をした元記事に対して、「女性」という言葉を使えばよい、と揶揄したものである。

「生理=女性」という構図は、生理のない女性あるいは生理のある男性の存在を抹消する。故にTERF(Trans-Exclusionary Radical Feminist:トランス排除的ラディカルフェミニスト)的であるとして、批判を集めた。

 

図らずとも、私は「生理がある人=女性」による「生理のない人=男性」への批判、という二項対立的な構図を作り出すところだったと思う。それに気づいた時、自分自身にゾッとした。

 

そして、改めて、「私にとっての」「私の」生理の意味について考えることにした。

私とその身体現象がどのような関係にあるのか、私はそれに対しどんな感情を抱いているのか。

その問いは、結果的に「私」の領域からはみ出る、より広い問いかけになるだろうという直感があった。

 

眠い、頭やら腹やらが痛い、眠い、眠い、シーツが汚れるんじゃないかと言う懸念で寝ててもいまいちリラックスできない、眠い、お腹が空く、頭がぼーっとする、そしてとにかくやっぱり眠い。

私にとって身体現象としての生理はそんな感じだ。特にポシティブなイメージはない。ただ、勝手に毎月やってくるので、「まあ仕方ないか」くらいのテンションで受け入れている。

しかしながら、これが妊娠・出産機能と結びついているのは微妙に腹が立つ。

特に、ヘテロセクシャリティとは縁遠く、今のパートナーも特に子育てを望んでいない状態とあっては、まず「自然妊娠」の可能性は限りなく0、精子提供を受けての妊娠の可能性もあまり高くないと言っていい。

 

「いらなくね?」

 

と思う。私の人生に、生理、いらないのでは?

 

一方、再生産が(おそらく)「可能である」私の身体性は、私にどことなく圧力を与えてきているような気がする。

 

数年前に言われた「子供は絶対産んどいた方がいいよ」という母の言葉を今も覚えている。

子供(=私と弟)がいてよかった、という意味合いに対する嬉しさと共に、「産まない」ことへのうっすらとした恐怖や罪悪感のようなものを感じたのだった。

 

だからこそ、私の生理に対する感情はアンビバレントである。

無くていい、無くなればいい、よりも、「いっそ無ければいい」という言葉がしっくりくるのはそのせいだ。

 

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作品を作るにあたって、このアンビバレントさを無理に解消する必要はないと思ったし、そもそもそれは無理だと思った。

むしろこのぶつかり合いこそ、私にとっての「生理」なのではないかと思う。

 

私は、生理の血を垂らしたビニールを生身の体に巻き付けた。

全く身動きが取れないほどではないが、かなり動きが制限される。

ビニールがピンと張り、私の姿勢も緊張する。

もがく。座る。歩こうとする。

私の身体は葛藤させられる。

 

いっそ無ければいいと思った生理だが、こうして作品を作ることは、それと対話し、私の言語にしていくプロセスである。

それは特段イヤなことではなかった。

「むしろ」楽しいとも言える、新しい意味合いを、私は自分の身体に見出しつつあった。

【作品1】検品工場

死を悼みたいと思った。

あまりに薄っぺらい死たち。

 

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リアリティ番組に出演していたKさんが自殺した。

新聞やLINEニュースなんかで記事がたくさん出た。

TwitterInstagramのツイートやコメントでは、多くの人が冥福を祈り、残念だったと言った。

 

今や彼女について語る言の葉は少ない。

何度も繰り返し語られ、拡散され、死との遭遇が上塗りされるうちに、当初の衝撃と関心は薄れる。

 

そのうち、彼女が本当に生きていたのか、定かではなくなってくるような、そんな気持ちにもなってくる。ネット上にのみ存在していたコンテンツなのではないかと。そんな非人間的な錯覚を起こしそうになる。

 

いや、そもそもそれは本当に錯覚なのだろうか?

 

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時々、弟がついに自殺に成功してしまうのではないかと想像する。

社会の中で上手く機能できない、生産も再生産もできていない彼は、ことこのネオリベ社会において「不良品」である。

私自身は、4年制大学を卒業し、一流と呼ばれる企業に就職し、さあ立派な労働者になるぞと、自身の「市場価値」をあげるぞと、半ば強迫的に考えたこともあった。

その「良品」の私は、貼り付けたような笑顔で声が出せずに、窒息し、少しづつ死んだ。

 

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作中、コンベアを流れていく**たちは、彼女であり、彼であり、私である。

彼女も彼も私も、顧みられることはない。

ならば、今、ここで、葬式をしてしまおう。

殺し、悼み、殺される、無限ループの中に私たちはいる。

 

私たちは、おそらく、既に死んでいるのだ。

ポートフォリオ作品について

芸大・先端芸術表現科の受験にあたり、ポートフォリオを制作している。

 

ポートフォリオには、制作過程・制作に至った背景や、作品コンセプトなどを記載する必要がある。

 

受験の小論文やセンターなどに関しては、正直あまり心配はしていない。

問題はポートフォリオだ。

私の場合、合否はこのポートフォリオの出来で決まると言っても過言ではないだろう。

 

しかし、キャプションというか、コンセプトを記載するのが難しい。

三者目線(を装って)で客観的に(見える)作品の意義を書き記すべきなのか。

それとも、作者の経験をベースとして記すべきなのか。

後者にしても、抽象的・詩的になりすぎないように、どうにも塩梅が難しい。

 

なんにせよ、私はいざポートフォリオを前にして書こうとすると、この迷いからか、少し力んでしまって上手く書けないでいる。

 

そこでこの(どうせ誰も見ていない)ブログを活用することにした。

だーれも知人が見ていないと思うと、私は好き勝手書き散らかせるのだ。

元来臆病な人間なので、誰か一人でも知り合いに見られるかもしれないと思うと、望ましさのバイアスが働くというかなんというか、とにかく好ましく思われる方に寄せようとしてしまう。要は自意識過剰である。

いずれ誰かに見せることもあるかもしれないが、それは私が死ぬ時かなーなどと思ったりする。

 

以下記事は、私のポートフォリオに掲載するキャプションの初稿(?)にしようと思う。

作品は基本時系列順。

 

【作品1】検品工場

【作品2】「いっそ」

【作品3】追い出されタイヤ

【作品4】木を公然わいせつ罪から守ってみた(あなたのためよ)

【作品5】身体の幾重

【作品6】架橋(完パスする彼女との生理についての対話)

【作品7】ぐにゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ

【作品8】抱擁のアーカイブ

【作品9】食べられる朝ごはん

あーーーーーーーーー特権まみれ

あーーーあーーーーーあーーーーーーーーー。

 

マジョリティであることが辛い。

自分の特権性を本気で省みたら私は死ぬ。

ふざけんな省みろよ、という自分がいる反面、マジで死ぬ。許して。

 

日本国籍を持っていること、健常身体を持っていること、シス女性(?)(少なくともトランスセクシュアルではない)であること、性愛者(?)であること、パートナー?がおり、持ち家があり、思考ができ(?)、文字が書け(?)、英語が扱え(?)、友達に恵まれていること。

((?)多くて笑う)

 

もちろんマイノリティ側面もたくさんあるのだが…女性身体持ちだし(「女性自認」とは言ってない)、ヘテロじゃないし、母子家庭だし、アトピーだし、会社辞めたし、ADD傾向あると思うし…

 

だから?と思ってしまう。

 

自分で書いててちょっと怖い。これは自罰的だろうか。

 

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自分の身体が「欠損」していれば良かったのにと願う自分がいる。

性愛という感情がなければよかったのに、と願う自分がいる。

そうでないから、私は、その経験を通して得る感情が「分からない」。

それが怖い。

私が見ることのできない景色があり、それゆえに私はのうのうと暮らせてしまう。

怖い。

 

私が今、例えば手を一本失ったとしたら、とても困るだろう。それでも、きっと、おそらく、少し、安心してしまうだろうと思う。

その経験ができるということに。

自分自身を糾弾しなくてもよくなる(…のか?)ことに。

 

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今、パートナー(?)がいることも、怖い。

 

誤解のないように書くと、私はその人のことが大好きだ。

出会ってからの期間こそ短いが、一緒にいて安心でき、人に耳を傾けるということ、対話をするということについて、本当に多くのことを教えてもらった。

一人上手な私にとっては大変不思議なことに、私は彼女とずっと話していたい、ずっと触れていたいし、口付けていたい、と感じてしまう。

失いたくないと思ってしまう。 

 

一方、そこについて回る言葉。

「排他性」

 

これは、以前、パートナー(?)から、「恋愛関係」の恐ろしさとしてさんざん聞かされた言葉である。

 

あーーー聞きたくない聞きたくない、耳をふさぎたい。

それは痛いから。

私は彼女を贔屓している。そんじょそこらの人間よりよほど好きである。

自分が一緒にいて心地よい人と一緒にいたいのである。

 

もちろん、心地いい人、好きと感じる人は他にもいる。

大学教授Aも、漫画のキャラクターAも、アーティストAも、元パートナーAも、大学時代の友人Aも、端的に言って大好きである。

その「好き」の内訳は、尊敬の念だったり、高揚感だったり、共感だったり、信頼であったり、愛おしさであったりと様々であり、どれか一つと選べるものでもなく、私の経験によって種々の味付けにブレンドされている。

「好き」という言葉自体は、文字通り、「好ましく思っている」という粒度荒めの意味しか持たないのだ。

 

そう、そして、好きだからと言って、全員と等しく親密であるわけでもなく。

私は実際のところ、誰とどの程度親密になりたいか、かなりピッキーに分けているのだ。

そしてその事自体は、私が個体として安全に生活を営んでいく上で必要だと思っている。し、自分自身としても、親密になりたいと感じる人と親密になりたいと感じる。

(理想は博愛主義だが…)

 

けど、「疎外された」「そこに入れない」「仲良くなりたいけど、引いてしまう」と感じる人がいること、特に私が好きな人にそう感じさせてしまうことは、とても痛い。

胸が痛い。あーーーーーーーーーー。見たくない、聞きたくない現実。あーーーーーあーーーーー、認識しなくちゃいけない。

どんなに言葉を尽くしたって、私から誰かが疎外され、その誰かは「あなたよりこの人が好きなの」とメッセージを受けとり続けるかも知れない。

ああ、分かり合えなさに絶望。

けど、同時にそこに生への希求も見る。だからこそ繋がりたいという欲求。(それはもしかしたら絶望的な希望なのかもしれないが、だとしたら果たしてそれは本当に希望たりえるのだろうか?)

 

私は繋がりたい。

 

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さらには、私たちの関係が、恋愛だろうがそうじゃなかろうが、そう回収されていくだろうことも認識している。

 

そして、

 

「パートナーと一緒にいたい。」

 

これが、「あなたもパートナーと一緒にいるべき」に転換されない上手いやり方を私は知らない。

世の中はそんな言い分ばかりな上、私の実践は私個人の欲望と規範の再生産を区別できない。

おそらくは、あえて明示的に語るしかないのだ。

違う、違う、この行為の主語は「今の私」だ、それ以上でもそれ以下でもない、と。

たとえ充分じゃないと分かっていたとしても。 

 

しかし、それがまた、個人の欲望を否定するメッセージとして受け取られないか、ということもまた、心配になってしまったりもする。

要は、「パートナー欲しい」と言っている人に対して、結果的に「それって規範的なんじゃない、本当にそれでいいの」という批判のメッセージを発してしまうことにならないか…。(もちろん、その指摘自体は、個人の欲望を一般化して語ってしまっている人や、本当は従いたくもない規範なのに「従わなきゃ」となっている人には有効だと思うのだけれど)

 

結局は聞くしかない。今その人が希求する生の形を、ただ否定せずに。

 

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暴力を見ろ。

自らの拳を見ろ。

 

死なない程度に。

 

あーーーーーーーーーーーーーーー。

 

あるいは、直視しながら、生き延びる方法もあるのだろうか。

 

私の中では、スピノザ「エチカ」の後半部分は、他者のみでなく、自分自身に対する許しの可能性を、上記の問いへのヒントをくれるものである。

 

「人間は自分たちを自由であると思うがゆえに、他の事物に対してよりも相互に対してより大きな愛あるいは憎しみを抱き合う」(エチカ 第3部定理49の備考)

 

人間の不自由、それは私にとって絶望的な希望だ。

まとまんない思考を書き散らす

ブログのサブタイトルを変えた。

 

「まとまんない思考を書き散らします。それで良い。」

 

前のサブタイトルは、「2020年渡独、美大進学を目指します」

 

これは180度…とまでは行かない、45度くらい変わった。

 

当時の彼女との関係性の変化、コロナ、株価暴落、先端芸術科の発見、諸々あって、志望先を変えた。

 

今は東京藝術大学の先端芸術表現科を目指して予備校通い、出願用のポートフォリオを作る日々だ。

正直言って、めちゃめちゃ楽しい。

楽しい。楽しい。

産みの苦しみ?そりゃある、けどなんにも産まれないままに息を詰められ死んでいくような苦しみから抜け出たばかりの私には、それすら光でしかない。

 

自分の作品が未熟なのはなんとなくわかる。

(未熟ゆえになんとなくしかわからない)

特に、社会と自分との接合点を探るという点において、私には課題が多い。

 

自分以外の声を代弁したい。いや、代弁というか、その人の声を、拡声器のように、拡散したい。

私の言葉はもう良い。私は強い。たくさん特権を持っている。

(これも大変偏った見方だ。本気でそう思ってる?とも思う)

 

一方で、他者と関わることの怖さよ。

踏むかも、傷つけるかも、搾取してしまうかもしれない。

実際、他者と共働して作る時はいつも悩んだし、まさにその他者に相談して優しい言葉をかけてもらったりしたこともあった。

自分もたくさん得られているよと。

 

それは救いにはなったが、ただ、この恐怖は根本的には消えることはないのだろう。

そして、おそらく、消さない方がよいのだと思う。

 

なぜ私が、それをする必要があるのか。

それをする私はどういう立場にいるのか。

 

そう言った問に答えようとしても、私は自分一人ですら納得させられた試しがない。

 

ただただ、それがわからないから、あらゆる批判から守ってくれる安全な言葉で自分の思考を包み切れないからといって、それを考えることを放棄するのは「私ではない」。

 

別に、全員がそれをするべきだとも、アーティストならその責任があるとも、私は言わない。言いたくない。経験を無視して属性で他者について語るのは、私が一番したくないことの一つだ。

 

私は、ただ、私固有の経験から、今の私がやりたいことは、【他者の声を聞くこと】であり、【他者がその人の生を生きることを肯定すること(それはしばしば逆説的に死を選ぶことであるかもしれない)】である、と思っているのである。

 

そして、それに直接的に「手が届く」と思える今の立場は、私にとって、生きる希望である。

静かに暮らしたい

彼女のことは好きだけど、パートナーとして生きていけるかは分からない。

根本的に違いすぎる感が拭えない。

 

彼女が他人と話している時のテンション、ノリ、話し方、なんか、生理的に、無理…と思ってしまう…

 

私はどちらかというと自分の感覚を大切にして生きる人間だが、彼女は違うところが中心にある。

水と油のよう…。折衷はできるが、一つの瓶にできるが、相入れることはない。

 

実際のところ、彼女に感じる気持ちは、前の就職先に感じていた気持ちと似ている。

「ここに染まることはできない。いつかは辞める、いつ辞めようか」

 

一緒に暮らすのは楽しいが、さて、どう転ぶか。

私がドイツに引っ越したら持たないんだろうと思うけれど、さてこのコロナが予想できなかったように、人生何があるか分からない。

予想は裏切られ、計画は頓挫する。

究極的には、答えは後から振り返ってのみ分かるものだ。

 

こう書くと、関係を維持する努力を放棄したように見える。

放棄しているのか?