つれづれる。

まとまんない思考を書き散らします。それで良い。かも。

【作品2】「いっそ」

ある生理についての作品を見て、ああ、血の力って強いなって思った。

私も生理についての作品を作りたいと思った。

「女性固有の」現象について扱うことで、フェミニズム的な文脈の中に位置付けられるのではないかと思った。

 

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最初に構想したのは、新聞紙を敷き詰め、その上に生理の血を垂らしながら生活するというものだった。

漢字を切り抜いて、その漢字の上に血を垂らすことを考えた。

私が生活し、血の面積が増えるにつれて、だんだんと文字が読めなくなっていく。

私の生活の経験が、生産的な「理性」を覆ってゆくのである。

元来男性のものとされた漢字を使うことで、ファロゴセントリズム(ジャック・デリダの造語で、ファルス(男根)+ロゴセントリズム(理性中心主義):言語の意味体型が男性中心的に構築されていることを指摘する用語)批判的な側面が明確になると思った。

しかし…

なぜ、「私が」、「今」、その作品を作る必要があるのか?

そう自分自身に問いを投げかけた時、答えに窮することに気づいた。

もちろん、言おうと思えばいくらでもそれらしいことを説明できるとは思うのだが、自分自身に対して納得感をもてなかったのだ。

 

この構想は、私個人が心からファロゴセントリズムを問題視したがために生まれたわけではなく、ある意味「理性的に」考えて生まれたものだった。

机上の空論であり、私自身の生活の実感が伴っていなかった、命が入っていなかったのである。

(一応補足すると、全ての作家においてこれがいけないと言うつもりはなく、私個人として、私自身の経験に紐づいた実感をもって作品を制作したいと感じたにすぎない)

 

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また、もう一つ、大きな問題にも気づいた。

「生理」を「女性性」に結び付けて語ってしまうことの危険性である。

 

ちょうどその頃、J.K.ローリングがTwitterで炎上していた。

 

【‘People who menstruate.’ I’m sure there used to be a word for those people. Someone help me out. Wumben? Wimpund? Woomud?】

ーJ.K.ローリングのTwitterより引用

 

この発言は、様々なジェンダーを考慮して「生理のある人」という書き方をした元記事に対して、「女性」という言葉を使えばよい、と揶揄したものである。

「生理=女性」という構図は、生理のない女性あるいは生理のある男性の存在を抹消する。故にTERF(Trans-Exclusionary Radical Feminist:トランス排除的ラディカルフェミニスト)的であるとして、批判を集めた。

 

図らずとも、私は「生理がある人=女性」による「生理のない人=男性」への批判、という二項対立的な構図を作り出すところだったと思う。それに気づいた時、自分自身にゾッとした。

 

そして、改めて、「私にとっての」「私の」生理の意味について考えることにした。

私とその身体現象がどのような関係にあるのか、私はそれに対しどんな感情を抱いているのか。

その問いは、結果的に「私」の領域からはみ出る、より広い問いかけになるだろうという直感があった。

 

眠い、頭やら腹やらが痛い、眠い、眠い、シーツが汚れるんじゃないかと言う懸念で寝ててもいまいちリラックスできない、眠い、お腹が空く、頭がぼーっとする、そしてとにかくやっぱり眠い。

私にとって身体現象としての生理はそんな感じだ。特にポシティブなイメージはない。ただ、勝手に毎月やってくるので、「まあ仕方ないか」くらいのテンションで受け入れている。

しかしながら、これが妊娠・出産機能と結びついているのは微妙に腹が立つ。

特に、ヘテロセクシャリティとは縁遠く、今のパートナーも特に子育てを望んでいない状態とあっては、まず「自然妊娠」の可能性は限りなく0、精子提供を受けての妊娠の可能性もあまり高くないと言っていい。

 

「いらなくね?」

 

と思う。私の人生に、生理、いらないのでは?

 

一方、再生産が(おそらく)「可能である」私の身体性は、私にどことなく圧力を与えてきているような気がする。

 

数年前に言われた「子供は絶対産んどいた方がいいよ」という母の言葉を今も覚えている。

子供(=私と弟)がいてよかった、という意味合いに対する嬉しさと共に、「産まない」ことへのうっすらとした恐怖や罪悪感のようなものを感じたのだった。

 

だからこそ、私の生理に対する感情はアンビバレントである。

無くていい、無くなればいい、よりも、「いっそ無ければいい」という言葉がしっくりくるのはそのせいだ。

 

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作品を作るにあたって、このアンビバレントさを無理に解消する必要はないと思ったし、そもそもそれは無理だと思った。

むしろこのぶつかり合いこそ、私にとっての「生理」なのではないかと思う。

 

私は、生理の血を垂らしたビニールを生身の体に巻き付けた。

全く身動きが取れないほどではないが、かなり動きが制限される。

ビニールがピンと張り、私の姿勢も緊張する。

もがく。座る。歩こうとする。

私の身体は葛藤させられる。

 

いっそ無ければいいと思った生理だが、こうして作品を作ることは、それと対話し、私の言語にしていくプロセスである。

それは特段イヤなことではなかった。

「むしろ」楽しいとも言える、新しい意味合いを、私は自分の身体に見出しつつあった。