あーーーーーーーーー特権まみれ
あーーーあーーーーーあーーーーーーーーー。
マジョリティであることが辛い。
自分の特権性を本気で省みたら私は死ぬ。
ふざけんな省みろよ、という自分がいる反面、マジで死ぬ。許して。
日本国籍を持っていること、健常身体を持っていること、シス女性(?)(少なくともトランスセクシュアルではない)であること、性愛者(?)であること、パートナー?がおり、持ち家があり、思考ができ(?)、文字が書け(?)、英語が扱え(?)、友達に恵まれていること。
((?)多くて笑う)
もちろんマイノリティ側面もたくさんあるのだが…女性身体持ちだし(「女性自認」とは言ってない)、ヘテロじゃないし、母子家庭だし、アトピーだし、会社辞めたし、ADD傾向あると思うし…
だから?と思ってしまう。
自分で書いててちょっと怖い。これは自罰的だろうか。
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自分の身体が「欠損」していれば良かったのにと願う自分がいる。
性愛という感情がなければよかったのに、と願う自分がいる。
そうでないから、私は、その経験を通して得る感情が「分からない」。
それが怖い。
私が見ることのできない景色があり、それゆえに私はのうのうと暮らせてしまう。
怖い。
私が今、例えば手を一本失ったとしたら、とても困るだろう。それでも、きっと、おそらく、少し、安心してしまうだろうと思う。
その経験ができるということに。
自分自身を糾弾しなくてもよくなる(…のか?)ことに。
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今、パートナー(?)がいることも、怖い。
誤解のないように書くと、私はその人のことが大好きだ。
出会ってからの期間こそ短いが、一緒にいて安心でき、人に耳を傾けるということ、対話をするということについて、本当に多くのことを教えてもらった。
一人上手な私にとっては大変不思議なことに、私は彼女とずっと話していたい、ずっと触れていたいし、口付けていたい、と感じてしまう。
失いたくないと思ってしまう。
一方、そこについて回る言葉。
「排他性」
これは、以前、パートナー(?)から、「恋愛関係」の恐ろしさとしてさんざん聞かされた言葉である。
あーーー聞きたくない聞きたくない、耳をふさぎたい。
それは痛いから。
私は彼女を贔屓している。そんじょそこらの人間よりよほど好きである。
自分が一緒にいて心地よい人と一緒にいたいのである。
もちろん、心地いい人、好きと感じる人は他にもいる。
大学教授Aも、漫画のキャラクターAも、アーティストAも、元パートナーAも、大学時代の友人Aも、端的に言って大好きである。
その「好き」の内訳は、尊敬の念だったり、高揚感だったり、共感だったり、信頼であったり、愛おしさであったりと様々であり、どれか一つと選べるものでもなく、私の経験によって種々の味付けにブレンドされている。
「好き」という言葉自体は、文字通り、「好ましく思っている」という粒度荒めの意味しか持たないのだ。
そう、そして、好きだからと言って、全員と等しく親密であるわけでもなく。
私は実際のところ、誰とどの程度親密になりたいか、かなりピッキーに分けているのだ。
そしてその事自体は、私が個体として安全に生活を営んでいく上で必要だと思っている。し、自分自身としても、親密になりたいと感じる人と親密になりたいと感じる。
(理想は博愛主義だが…)
けど、「疎外された」「そこに入れない」「仲良くなりたいけど、引いてしまう」と感じる人がいること、特に私が好きな人にそう感じさせてしまうことは、とても痛い。
胸が痛い。あーーーーーーーーーー。見たくない、聞きたくない現実。あーーーーーあーーーーー、認識しなくちゃいけない。
どんなに言葉を尽くしたって、私から誰かが疎外され、その誰かは「あなたよりこの人が好きなの」とメッセージを受けとり続けるかも知れない。
ああ、分かり合えなさに絶望。
けど、同時にそこに生への希求も見る。だからこそ繋がりたいという欲求。(それはもしかしたら絶望的な希望なのかもしれないが、だとしたら果たしてそれは本当に希望たりえるのだろうか?)
私は繋がりたい。
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さらには、私たちの関係が、恋愛だろうがそうじゃなかろうが、そう回収されていくだろうことも認識している。
そして、
「パートナーと一緒にいたい。」
これが、「あなたもパートナーと一緒にいるべき」に転換されない上手いやり方を私は知らない。
世の中はそんな言い分ばかりな上、私の実践は私個人の欲望と規範の再生産を区別できない。
おそらくは、あえて明示的に語るしかないのだ。
違う、違う、この行為の主語は「今の私」だ、それ以上でもそれ以下でもない、と。
たとえ充分じゃないと分かっていたとしても。
しかし、それがまた、個人の欲望を否定するメッセージとして受け取られないか、ということもまた、心配になってしまったりもする。
要は、「パートナー欲しい」と言っている人に対して、結果的に「それって規範的なんじゃない、本当にそれでいいの」という批判のメッセージを発してしまうことにならないか…。(もちろん、その指摘自体は、個人の欲望を一般化して語ってしまっている人や、本当は従いたくもない規範なのに「従わなきゃ」となっている人には有効だと思うのだけれど)
結局は聞くしかない。今その人が希求する生の形を、ただ否定せずに。
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暴力を見ろ。
自らの拳を見ろ。
死なない程度に。
あーーーーーーーーーーーーーーー。
あるいは、直視しながら、生き延びる方法もあるのだろうか。
私の中では、スピノザ「エチカ」の後半部分は、他者のみでなく、自分自身に対する許しの可能性を、上記の問いへのヒントをくれるものである。
「人間は自分たちを自由であると思うがゆえに、他の事物に対してよりも相互に対してより大きな愛あるいは憎しみを抱き合う」(エチカ 第3部定理49の備考)
人間の不自由、それは私にとって絶望的な希望だ。