つれづれる。

まとまんない思考を書き散らします。それで良い。かも。

まとまんない思考を書き散らす

ブログのサブタイトルを変えた。

 

「まとまんない思考を書き散らします。それで良い。」

 

前のサブタイトルは、「2020年渡独、美大進学を目指します」

 

これは180度…とまでは行かない、45度くらい変わった。

 

当時の彼女との関係性の変化、コロナ、株価暴落、先端芸術科の発見、諸々あって、志望先を変えた。

 

今は東京藝術大学の先端芸術表現科を目指して予備校通い、出願用のポートフォリオを作る日々だ。

正直言って、めちゃめちゃ楽しい。

楽しい。楽しい。

産みの苦しみ?そりゃある、けどなんにも産まれないままに息を詰められ死んでいくような苦しみから抜け出たばかりの私には、それすら光でしかない。

 

自分の作品が未熟なのはなんとなくわかる。

(未熟ゆえになんとなくしかわからない)

特に、社会と自分との接合点を探るという点において、私には課題が多い。

 

自分以外の声を代弁したい。いや、代弁というか、その人の声を、拡声器のように、拡散したい。

私の言葉はもう良い。私は強い。たくさん特権を持っている。

(これも大変偏った見方だ。本気でそう思ってる?とも思う)

 

一方で、他者と関わることの怖さよ。

踏むかも、傷つけるかも、搾取してしまうかもしれない。

実際、他者と共働して作る時はいつも悩んだし、まさにその他者に相談して優しい言葉をかけてもらったりしたこともあった。

自分もたくさん得られているよと。

 

それは救いにはなったが、ただ、この恐怖は根本的には消えることはないのだろう。

そして、おそらく、消さない方がよいのだと思う。

 

なぜ私が、それをする必要があるのか。

それをする私はどういう立場にいるのか。

 

そう言った問に答えようとしても、私は自分一人ですら納得させられた試しがない。

 

ただただ、それがわからないから、あらゆる批判から守ってくれる安全な言葉で自分の思考を包み切れないからといって、それを考えることを放棄するのは「私ではない」。

 

別に、全員がそれをするべきだとも、アーティストならその責任があるとも、私は言わない。言いたくない。経験を無視して属性で他者について語るのは、私が一番したくないことの一つだ。

 

私は、ただ、私固有の経験から、今の私がやりたいことは、【他者の声を聞くこと】であり、【他者がその人の生を生きることを肯定すること(それはしばしば逆説的に死を選ぶことであるかもしれない)】である、と思っているのである。

 

そして、それに直接的に「手が届く」と思える今の立場は、私にとって、生きる希望である。